2009年03月28日

「静かなたたかい 〜 広岡智彦と『憩いの家』の三十年」

 1967年昭和42年に世田谷 三宿に施設を出た子どもへのケアを

するための居場所として「憩いの家」が設立される。当初から管理運営

委員長のとして関わった広岡智彦さんが書いたものを年代順にまとめた

ものがこの本で1997年に朝日新聞社から出版された。

 25年前三宿の隣、太子堂に住んでいたけれど「憩いの家」のことは

全く知らないまま過していた。梅が丘に区立図書館があり、当時よくそ

こには行っていて、図書館に隣接する形で公園があった。その入り口に

「羽根木プレーパーク」の遊び方のお約束が書かれた看板があった。

 その公園が子どもたちにとってとても魅力的な遊び場に違いないとい

う感じがその看板の文章から伺えた。

 三宿の憩いの家は知らなかったけれど、世田谷という地域が「子ど

も」の成長を支える市民の力に溢れているところであるということが、

この二つの活動からも充分推測できる。

 行政にはない発想と行政ではできない柔軟な活動がこうして市民の力

で行われていた。

 公的機関の児童養護施設は、高校進学率が90%を越える時代に入っ

ても15歳で中学を卒業すると「社会にでられるはず」「仕事を持つの

が前提」で施設を出ないといけない。

 もともと施設に預けられる子どものそれまでの家族関係が良好ではな

かったり、施設でも集団生活で一人ひとりの子どもの精神的育ちにまで

目が行き届かないまま、ただ年齢だけが15になったらトコロテンのよ

うに押し出されて、働き始めてもうまくいかない子が多い。そういう子

どもたちを支援するのが三宿の「憩いの家」。

 彼の書いている内容は延々、もっと行政も支援していくべきだと一貫

している。つまり何年経っても行政は手をつけず、市民が細々とやらざ

るを得ない状態が続いていたのだいうことがよくわかる。

 彼のたたかいは生き難さを抱えた子どもたちを支えるためのたたか

い。いつまでたっても動けない行政へ何度も何度も話をするたたかい。

それは少しも目立たず、静かなたたかいだったかもしれないけれど、彼

と歩みを共にする支援者がいた。

 広岡さんは1995年に亡くなるが多くの人に支えられて自立支援の

活動は続いている。

 
 
posted by ほたる at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んでみたら | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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